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れいなちゃんを巡って [3]

2011年03月30日
れいなちゃんの「大人チーム」としての仕事、すなわち愛ちゃんガキさんと組んだ「Take off is now !」や「情熱のキスを一つ」、そしてその延長としての HIgh-King なども含めてですが、実際のところそのとんでもないかわいさはこちらがどうにかなってしまうのではないかというくらい殺人的なものです。そこではれいなちゃんの子供の色気がリミッターもなく吹き荒れまくっています。れいなちゃんはそもそも体型というか「形」が激きゃわなのですが、それに加えて「動き」も激きゃわです。以前ソロDVDを見て、コンサートの間中、ほとんど途切れる瞬間なく萌え萌えな動きとポーズを繰り出し続けているれいなに驚嘆したことがあります。れいなちゃんが脚をピキンと伸ばし、それを軽く開き気味にしてステージに立つとき、その三角形というか、細長い台形というか、その上にお尻がちょこんと乗っかっている形がなんともコケティッシュなのですが、恐ろしいことにその美しい台形の上をれいにゃのお尻と上体は前後左右に動くことができ、さらに形態を変化させていくのです。
れいなちゃんのあの殺人的なヒップワーク。見た者の理性を一瞬にして吹き飛ばし、れいにゃーーー!!!という絶叫に誘わずにおかないとんでもないキャワ・コケティッシュな動きと形は、もし「萌え無形文化財」「萌え人間国宝」というものがわが国に存在するなら、「カッチョイイゼ!JAPAN」の梨華っちなどとともに当然それに指定されて然るべきものです。「C\C」でれいなちゃんがナナァナナァ ナナァーのヒップワークを繰り出すとき、彼女は子供であることがそのままコケットリーであるという異常事態を巻き起こし、その動きで世界をかき乱しているのです。そしてれいなちゃんのヒップワークは彼女の正面からではなく、「C\C」がそうだったように必ず横から見られなければいけないものです。プラチナ9DISCOの「The 美学」がれいなちゃんのちびっ子お色気パフォーマンスとしては珍しく失敗に終わったのは、れいなちゃん本人のせいではなく、あの振り付けが彼女のヒップワークの美質を消し、それを通俗的でいささか品性を欠いたものに変質させてしまったからだと私は考えています。

「Take off is now !」にしても「情熱のキス」にしても、そこで繰り広げられる「大人びた」世界、「クールで情熱的な」世界は、半分は本気でグッと来るし、半分は笑うしかないような世界です。その世界のベースを作っているのが、愛ちゃんとガキさんであることは言うまでもありません。そうした二面性はまず愛ちゃんの本気さ加減、ガキさんの真面目さ加減から生じています。そのあまりの真面目さ、あまりの本気さに私たちは思わず笑ってしまったりもしますが、その笑いは決してヒステリックなものでもシニックなものでもなく、あまりのできごとに思わず笑わずにいられないといった陽性の笑いなのです。いずれにしろ愛ちゃんとガキさんはあくまで「大人」ワールドを信じ、それを本気で真面目に目指しています。そのこと自体がステージ上で時に過剰で尋常でない何物かに至っているわけです。
ところがれいなちゃんがそこに開ける風穴はあまりに大きなものであり、もっと直接的にユーモアに溢れたものです。もちろんれいなちゃんも本気で、真面目にこの大人チームの仕事に取り組んでいることは間違いありません。ですからちっともそれをからかう風ではないのですが、にもかかわらずこの大人の世界を異化している、というか茶化しているように見えます。れいにゃが「♪じょぉおねつはこんや」と最初の一声を挙げた瞬間に、そこに充満する子供の力にすべてはガラガラと崩れ去ってしまいます。これは子供かわいい娘。たちのステージであって、「大人」ワールドなど本来信じるべくもないものであるということを、れいなはその破壊的なまでのちびっ子さ加減によって、一気に身も蓋もなく明らかにしてしまうのです。しかもそこに降臨するのは単なる子供(リアルキッズ)ではありません。異常なる子供、凝集し増幅した子供なのです。その声と姿の異様なまでの強度と密度こそが、実は私がつねづね娘。たちだけに感じているものであって、れいなちゃんがいくら子供全開の状態になっても、それに萌えることに(リアルキッズに萌えるような)後ろめたさを決して感じさせないのはその異常さのためなのです。
そんな子供に出くわすと、私たちは一気に破顔し、萌え爆笑します。れいなちゃんにおいては尋常を越えたかわいさが微笑ましさの極みのようなおかしさと一致しているので、萌えと笑いが同時に訪れるのです。そしてこの現象を私たちはよく知っているという思いに駆られます。つまりそれこそが私たちの愛するモーニング娘。というものなのです。本来そこで花開くべくもない激きゃわの渦が、抑圧の下から一気に吹き出し、かわいさのあまり爆笑を巻き起こしてすべてを持ち去ってしまうといった現象こそが、私たちにとってのモーニング娘。に他なりません。

(まだ続きます。)

れいなちゃんを巡って [2] かわいさの受難

2011年03月23日
ところでモーニング娘。にあっては、かわいい者がかわいくあるということは、必ずしも当たり前のことではありません。いやもちろん娘。たちは明らかに激きゃわなのですが、しかしそのかわいさに送り手側・プロデュース側が十分関心を持っているかというと、それが案外冷淡なのです。むしろかわいさはほとんどの場合抑圧され、かわいいがまま、あるいはかわいさを強調する形で表に出されることは少ないように思われます。これはモーニング娘。が一応「アイドル」であることから考えると、かなり異常な事態ではないでしょうか。かわいい子ならば、そのかわいさは最大限商品化されてしかるべきである、とアイドル産業的にはそう考えられるのが普通でしょう。ところがモーニング娘。においては、娘。たちのかわいさが臆面もなく前面に打ち出されることはむしろ稀なのです。

そしてこのかわいさの抑圧を歴代の娘。の中でもっとも強く受けたのが、まずごっちん、そしてれいなちゃんではなかったかと考えます。ごっちんはとにかくかわいい存在として登場し、それによって世界と娘。を揺り動かしたにもかかわらず、そのかわいさに比してかわいさを全面開放するような場を与えられることがあまりに少ない娘。だったと言えます。ごっちんのかわいさが問答無用に爆発した場はプッチモニくらいのものだったのじゃないでしょうか。その後ごっちんは、かわいいというよりはかっこいい路線にシフトされて行きました。しかし私たちの誰もが、ごっちんがそのかわいさを貫徹するような形で表に出続けたら、どんな凄いことになったかと夢想しないではいられなかったはずです。ごっちんのソロデビューは、ひょっとするとアップフロント的には、あややと被ることを恐れてあのような路線になったのかもしれません。しかしそんな事務所内のバランス的配慮などは世界にとってどうでも良いことであって、ごっちんはもっとひたすらかわいい存在としてプロデュースされるべきだったのではないかという思いは、それからのごっちんが描いた充実した軌跡を知っていながら、いまだにどこかに残っています。そして当初はかわいさの方向で売り出されていたあややでさえ、いつの間にか辛気臭い歌を歌うようになっていきました。娘。にはある肝心な瞬間に、本来その瞬間にこそ吹き荒れてしかるべきかわいさを、抑圧されて終わるようなことがよくあるのです。
そこには単なるプロデュースの拙さといったものを超えた何かがあるように感じられます。送り手の心理の内に、ほとんど病的・強迫観念的な何物かが流れているようにすら思えてきます。まるで娘。たちのかわいさが節操なく吹き荒れることを畏怖し、かわいい者のかわいさをそのまま、あるいは増幅して送り出すことを禁じているかのように見えるのです。

そしてれいなちゃんです。最近はあまり口にしなくなりましたが、れいなちゃんがつねにかわいい存在としてプロデュースされたがっていることはその発言からも明らかです。「シャイニーG」の萌え萌え感を誰よりも喜んだ人はおそらくれいなちゃん本人でしょう。れいにゃはかつてミニモニ。キッズだったことを何度か公言していますから、かわいい存在として歌い踊ることを幼い頃から夢見てきたでしょうし、彼女のブログを見ればわかるように基本的にかわいくあることに強いこだわりを持って生きている人です。そして実際れいなちゃんは激きゃわなわけですが、しかし必ずしも娘。においてかわいい役を振られているわけでないことはご存知のとおりです。だから、れいなちゃんはときどき、愛佳の「私の魅力に 気付かない鈍感な人」を自分が歌いたかったとあからさまに嫉妬を口にしたり、また「つんくさんにとってれいなは愛ちゃんガキさんと同じ“大人チーム”みたいなんで」とやんわり皮肉を言ったりしないといられないのです。
そういうことを思うのはもちろんれいなだけではありません。さゆだって初めてのソロ曲「It's You」について「(さゆみだからかわいいキャピキャピの曲が来るかと思ったけど)つんくさん、そう来たか」というようなことをいささか当惑した感じで言っていました。その言葉には、ソロ曲をもらえて嬉しいことは嬉しいけれど、これがかわいい曲だったらどんなに嬉しかっただろう、というさゆの思いが滲み出ていたように思います。さゆちゃんのようなかわいさ担当のような娘。でさえしばしばそうなのです。
それにこれは娘。たちの髪型の問題とも関わってくるように思われます。いま、前髪を下ろした愛佳が滅茶苦茶かわいいことはヲタなら誰もが知っていることであり、そのかわいさは世界を萌え殺すほどのとんでもない破壊力を秘めていると思われるのですが、なぜか送り手は未だに愛佳をデコ出しから全面解放していません。こうしたことはいままで何度も繰り返されてきています。娘。加入当初の梨華っちもやはりデコ出しを強いられ、その魅力を抑圧されたまま数ヶ月を過ごしていたのです。

これはたいへん謎な事態ですね。私たちは(と言うと語弊があるかもしれませんが、少なくとも“私は”)、娘。たちを何はさておきまずとんでもなくかわいい存在だと思っています。そのかわいさの質こそが娘。が娘。であることの証しだと思っているのですが、どうもモーニング娘。の送り手、プロディース側はそうは思っていない気配があります。送り手側の考える「モーニング娘。」には、かわいさというものは勘案されていないか、あるいはせいぜい二次的な意味しか与えられていないように思えます。それゆえに、娘。たちのかわいさは本来的に「モーニング娘。」に対して過剰なものとしてあることになります。それは「モーニング娘。」が提出しようとしているものにとって、本質的にバグでありノイズだということになります。そして、もしかすると送り手はそこまでを考えに入れ、つまりかわいさとはプロデュースによって人為的に引き出されるものではなく、むしろ一見放置されたかのような状況の中で醸成されるものだと考えているのでしょうか。だとしたら、彼らの戦略は変態的とすら言えるものだと思います(笑)。また、思えばモーニング娘。はそもそもかわいい存在としてプロデュースされてきたわけではありません。むしろ当初から反アイドル的なものとして世に送り出されていたのです。このことは「モーニングコーヒー」のPVに象徴的に現われています。あのPVの冒頭部は、SKI(制服向上委員会)を思わせる衣装で、青空の下で撮られています。これはきわめてアイドル的な世界です。ところがその世界は長くは続かず、すぐに娘。たちが都会を孤独に彷徨する、半分夜のような世界に転じて、二度と元には戻りません。その転換は、モーニング娘。がアイドル的なものを含みながら、しかしそれに背を向けて、反アイドル的なものを志向するという宣言だったのかもしれません。

話を再びれいなちゃんに戻す前に問題を整理すると、ひとつは娘。たちのかわいさは送り手の提示する「モーニング娘。」に組み込まれているものではなく、多くの場合「モーニング娘。」を越えた、ひょっとするとそれを裏切りすらする過剰として存在するということ。それに加えてもうひとつ、だからこそ娘。たちのかわいさは安定し固定されたものではなく、つねに葛藤とともにあるということ、この2点を挙げて話を進めたいと思います。

れいなちゃんを巡って [1] 子供かわいさについて

2011年03月20日
今日はみなさんの前でれいなちゃんについてお話しさせていただくわけですが、かなりの部分気の向くままにやらせていただこうと思っていますし、また一人の娘。について話すということは、娘。のすべてについて話すことに他なりませんから、たぶんいろいろ脱線したり、行きつ戻りつしながら進むことになると思います。それと、れいなちゃんを呼ぶ表現は、れいな、れいにゃ、田中っちなど、時に応じて揺れ動くことになると思いますので、その点ご了承ください。

まずれいなちゃんは非常にかわいいということがあると思います。そのかわいさというのが、明らかに尋常ではない。仮に渋谷の街を歩いていても、れいなちゃんのようにかわいい女の子にはまず遭遇することはあるまい、という種類のかわいさなのです。もちろん大なり小なり娘。たちはそういうふうに普通でなくかわいいと言えるでしょう。この場合の普通でない、尋常でないというのは、あくまで量の問題ではなく、質の問題なのだと思っています。つまり、娘。たち(残念ながらここでそう言うとき新メンはまだそこに含まれていないのですが)のかわいさは普通の女の子たちのかわいさを足しても掛けても、決してそうはならないといった類のものです。単にかわいさの量が絶大なので一般人とは別物に見えるとかいったレベルではなく、質的に明らかに普通の子たちとは異質なかわいさとなっています。そうした中でもれいなちゃんの異常なまでのかわいさというのは、際立ったものがあると思うのです。いや、れいなちゃんにおいては、そして多かれ少なかれ娘。たちにおいては、そのかわいさはまさしく異常であることと、ほとんど同じことになっています。れいなちゃんのかわいさは、そのまま異常さと表現されてもよい類いのものなのです。れいにゃの、あるいは娘。たちのかわいさが質の問題であるというのはそういう意味においてです。
れいなちゃんのかわいさを一言で言い表わす言葉はありませんが、とりあえずいまそれを「子供かわいい」と言ってみることにします。他の娘。たちのかわいさも結局のところ「子供かわいい」と言ってよいものでしょう。この言葉はもちろんジュンジュンが自称していた「大人かわいい」を反転させたものです。前に書いたこともありますが、ジュンジュンが娘。の中で「大人かわいい」と主張することに意味があるのは、娘。たちが総じて圧倒的に「子供かわいい」という事実が前提としてあるからです。
たとえばガキさんの驚くべき子供かわいさ。実は写真集のとき福家で行われたガキさんの握手会に私も行ったのですけど、ブースに入って一目見た瞬間、そこに見たこともないようなかわいらしい子供(すなわちガキさん)が立っていることに心底驚きました。ガキさんと言えば最近ではステージ上で貫禄を感じることも多いわけで、写真集の握手会ともなればより大人っぽい雰囲気を作ってくるのではないかと思っていたのですが、そんなことはまったくなくて、そこで会ったガキさんはまるでキラキラ輝いているかのような、ほんとうに綺麗な子供だったのです。
それにたとえばさゆ。さゆちゃんは生き方によっては今よりはるかに大人っぽい女性に育っていても不思議はないはずです。しかしいつまでも幼い「しゃゆ」であり、「ちゃゆ」であり続けているのです。それは絵里ちゃんだってそうです。絵里ちゃんの女性としての魅力はいつからかとんでもない域に達していましたから、妖魔のように全世界を悩殺しても不思議はなかったはずなのですが、しかし実際の絵里ちゃんはへへへへ……と幼く笑う子供だったのです。その子供っぽさはやはり絵里ちゃんの見た目にも滲み出ていたと思います。それに愛ちゃんだってどう見ても24歳には見えませんよね、たまに幼女のような顔をしているときがある。

こうした幼さが娘。特有のものなのか、と問われれば、それは正直言ってよくわかりません。少なくとも現ハロプロメンバーの多くは、娘。に限らず、年齢に比して幼く見えるのではないか、と言われればそれはそうなのかもしれません。私にとって、かつてキッズと呼ばれたベリキューのメンバーや、エッグ上がりのメンバーというのは例えて言うなら近所の子供のようなものです。たまに目にしてかわいい子がいるなと思ってはいても、たえず気に掛けていたわけではありません。彼女たちを知った最初の頃は小さな子供だったのですが、気が付くと妙齢になっている子もいるというわけです。そこに娘。も含めた関連性があるのかどうかは、私にはわかりません。たとえばもしかしたら娘。たちの幼さが娘。という枠を越えてハロプロメンバーに何らかの作用をもたらしているというようなこともあるのかもしれません。しかしそれはハロプロを愛する人たちが言葉にすべきことであって、私には言葉にできません。よく誤解されるのですが、私の魂を捉えた唯一のものはあくまでモーニング娘。であって、決してハロプロではありません。ですからここでは近所のあるいは他の区域に住む子たちのことは保留にして、「家(うち)の娘たち」である娘。のことを語るということでご了承いただければと思います。

ラノベ始めました

2011年01月27日
アニマル・ワンダーランド」 http://ameblo.jp/dhipio/

参考:娘。のために「お話」を書く計画

よろしくお願いします。

娘。たちの三夜 [3] 横浜アリーナコンサート後の打ち上げ

2010年12月31日
■2010年12月15〜16日



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娘。たちの三夜 [2] JCBホールコンサート後のパーティ

2010年12月31日
■2010年12月12日

それは少し早めのクリスマス・パーティという名目だったけれど、実は絵里ちゃん・ジュンジュン・リンリンの卒業を祝うサプライズ・パーティでもあり、絵里ちゃんのこれも早めのサプライズ・バースディ・パーティでもあり(つまりサプライズは二重に仕込まれていた)、台風でお流れになったハロウィン・パーティのリベンジでもあった。そもそも今年のハロウィンは、娘。8人全員でやろうということになっていて(2年前のハロウィンには愛ちゃんさゆえりが、絵里ちゃんの妹なども交えてパーティをした)、そんなふうに娘。全員がプライベートで集まることはかつてなかったので、とても重要なイベントだったのだが、よりによってその日を台風が直撃したのだった。
絵里ちゃんジュンリンが会場に入ると、クラッカーが鳴り響き、「三人、ちょービックリしてて可愛かった!」。とりあえずひとつ目のサプライズは大成功である。壁には「光井さん愛を込めての手作り風船」。先行隊が会場までのクルマの中で風船を膨らませ、愛佳がマジックで卒・業・お・め・で・と・うと1文字ずつ書いて、会場に着くなり急いで飾り付けしたのだ(この日のサプライズを提案したのは愛ちゃん、それを幹事として仕切ったのは愛佳だった)。「ここから♪ 楽しい楽しいパーティーの始まり始まり〜♪♪♪」。おそらくこのタイミングで撮ったと思われる8人の集合写真が各娘。のブログに上がっているけれど、特に円陣を組んで撮った写真(さゆれいな愛ちゃん)にはグッとくる。この手前が少しつぶれた円陣は、この8人の娘。たちのかけがえなさを写真に収めるために生まれた、完璧な陣形ではないだろうか(ぴったりくっついた娘。たちで円陣は閉ざされているはずなのに、同時にこちらの視線に開かれている)。そしてこの全員が満面の笑顔で撮った写真を見ればもう涙は堪えようもない。
ご飯をたくさん食べたころ、二つ目のサプライズ、絵里ちゃんのお誕生日祝いが始まる。「パーティー中ね。えりはずっと落ち着きがなく、じーっと座らないでフラフラお店を歩き回るから、ケーキの存在に気付かれないかドキドキもんでしたよ(^。^;)」。でも「えりは人を疑ったりしないから」幸いバレることはなく、電気が消え、ハッピーバースディの合唱とともに、あいかぼちゃ(ハロウィンのカボチャの着ぐるみを着た愛佳。忘れ難い可愛さ)がケーキを持って登場したら、床に転けるほど驚いてくれた。ケーキを受け取った絵里ちゃんは、蝋燭の炎に照らされて、まるで子供のような笑顔をしている(愛ちゃんが撮った素晴らしい写真)。撮影会が始まる。テンションの上がったれいなちゃんが満面の笑顔で絵里ちゃんに寄り添う(「れいなの笑顔って何気に貴重かも!??」)。愛佳が絵里ちゃんの頬にちゅーする(だから嫉妬したさゆは絵里ちゃんにちゅーされた写真を二度もブログにアップする)。絵里ちゃんは背筋を伸ばしてトゥースする。絵里ちゃんのこの笑顔。みんな楽しくて幸せで、笑い転げる。「いっぱいいっぱい笑ったよぉーー!」。そして突然ジュンジュンが泣き出してしまう。「これからみんなと離れるなんて... この淋しさ。.. 好きすぎって苦しいと言う事は今なんか分かった気がする><..」。
れいなちゃんは言う、「れーな8年モーニング娘。やってきたケド 初めてモーニング娘。のプライベート見た(笑)」。もちろん娘。たちはみな肉親と言ってもいいほど緊密な関係にあるけれど、必ずしもプライベートで全員が遊んだりしているわけではない。さゆ(こんうさピー)「女の子ですから、やっぱりいろいろあるんですよ、メンバー同士でも。微妙な距離感があったりとかもするんですけど、もうその日はほんっとに8人で楽しかったから、もうほんとにそれだけで十分だなって、思いました」。愛ちゃん「なによりも、みんなで食べるご飯は、最高に美味しかったです!」。さゆ「いっぱいいっぱいちょーちょー楽しかった(o^∀^o)♪」。ジュン「ジュンジュン今のモーニング娘。大.大.大.大.大好き! モーニング娘。の一人としてとってもとっても幸せ。..」。れいな「れーな麺食べながら半笑い(笑) なんでかいな?笑」。そしてれいなちゃんは思う、「みんな普通の女の子っちゃねって」 。


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娘。たちの三夜 [1] さゆのお家にガキカメが泊まる

2010年12月30日
■2010年12月3〜4日

その日、仕事終わりのさゆはガキカメの二人と合流し、ご飯を食べた。カメ=えりがもうすぐ卒業してしまうから、ということもあってそういう流れになったらしい。その席は盛り上がったが、結構いい時間になったので、そろそろ帰ろうかという話になって、さゆみ帰りたくない、別れたくないの二人と。やだやだ、と、さゆが駄々をこねはじめ、「収拾が付かなくなった」。それでガキカメはさゆのお家にお泊まりすることになったのである。「ガキカメ『え〜〜〜っ?いいの?』 いいよ。だってえり卒業するの嫌だし!」。
そして三人は電車(どうやら山手線らしい)でさゆの家へ向かうこととなった(そのことはさゆのブログによって、ほぼリアルタイムでわれわれに知らされた)。ところがどうしたことか、電車は何かのトラブルで停止してしまい、そのまま1時間も動かなくなってしまった(電車がさゆの心の声を聞いて、この夜の時間が過ぎ去るのを押し止めたとでもいうのか)。「で、そのあとやっと動いたかと思いきや、満員電車 あーもーさゆみたち笑うしかない状態(笑)(笑) 押し潰されながら大爆笑(笑)(笑)(笑)(笑)」。さゆブログの写真を見ると、ガキカメの二人は眼を閉じて、このちょっとしたおしくらまんじゅうを遊んでいるかのようにも見える。それでもガキさんは一応あひゃーという辛そうな顔をつくっているのだが、絵里ちゃん(メガネを掛けている!)のほうはへらへらと笑顔を浮かべていてむしろ楽しそうだ。そういえば絵里ちゃんは昔から狭いところが好きで、満員電車を落ち着く場所と言っていた子だった。
三人はコンビニに寄ってさゆの家に着く。ガキさんはまずお風呂に入りたかった(明日の朝、三人一緒に入ればいい、とさゆえりに言われたが、ガキさん的には女の子同士といってもそれは恥ずかしかったし、お風呂には一人でゆっくり入りたかった)。それで一番にお風呂に入って、上がったら、さゆに鼻が赤いよと言われる。鼻血が出ていたのだ。二十歳を過ぎてからは少なくなったが、ガキさんは基本的に「鼻血が良く出るタイプ」の子であった。「鼻血の処理には慣れてる」ガキさんはさっそくティッシュを鼻につめた。
次はえりが入りな、と言ったのに、絵里ちゃんはめんどくさいのか、なかなかお風呂に入りたがらず、パンツ1枚の姿で(上はてろてろのTシャツみたいなものを着ていたらしいが)ずっとそのへんをうろうろしていた。後にこの件を横アリの大観衆の前でさゆに暴露され、絵里ちゃんは恥ずかしさのあまりステージ上に崩れ落ちることになる(パンいち事件)。
翌朝の三人の写真をさゆとガキさんがそれぞれブログにアップしているけれど、これが超リアルなものとなっている。絵里ちゃんは髪もぼさぼさで、スッピンの顔はまったく目覚めていない(スティッチのTシャツ)。ガキさんが借り着のジャージの上に自分のジャケットだけ羽織った姿も、いかにも友達の家に泊まった朝っぽい(しかも裸足だ)。さゆちゃんは彼女的にいろいろあるのか顔を隠して写っている。
「修学旅行みたいだったよ」と、さゆはブログのタイトルにこの一夜のことをそう書いているが、私たちもそう思ったし、ほぼリアルタイムでアップされるさゆちゃんのブログと、Twitterというものの存在のおかげで(そこにはもちろんさゆちゃんたちはいないが、現に山手線が止まって往生しているという人はいた)、この「旅行」に遠くから付き添うことができた。


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絵里ちゃんズ 2

2010年12月12日
最近いろんな人が「亀井ちゃんのダンス好きだったよ」って言ってくれるんですが、絵里はただ自分が楽しくて踊ってたのに、それを好きだと言ってもらえるのはホントに幸せ者ですね。
   -----亀井絵里「モーニング娘。6期最強伝説 最終回」ザテレビジョン 2010 No.47



絵里ちゃんのダンス。絵里ちゃんのダンスは感情がそのまま全身から溢れているかのようだ。
それにタンポポ#のときには、あまりのかわいさ、魅惑に絵里ちゃんから文字通り眼が離せなくなり、心が吸い取られていった。

思い返すに、ライブステージの上の存在感という点において、絵里ちゃんはさゆやれいなのような意味での「天才」ではなかった。
さゆちゃんやれいなちゃんは娘。に入ったほぼ当初から、ステージ上できわめて萌え萌えな存在感を示すことができた。さゆとれいなはほとんど努力しないまま、気が付けばすでに激きゃわなダンスで見る者を魅了することができた「天才」だったのである。(いや実際にはおそらく努力もしたのだろうが、二人の魅力はその努力の成果とは言い難いたぐいのものだった。)二人は「バリバリ教室」の頃にはすでに、100メートル離れた位置から見ても、その動きとかたちだけで私たちの眼を惹き、楽しませることができる特殊な能力を身につけていた。
さゆの天賦の才とは、さゆがステージ上でダンスを始めた瞬間に彼女の周辺にパッションの炎が上がって渦を巻き、こちらの感情を激しく揺さぶらずには置かない点にある。さゆのダンスはあらゆる瞬間に、刻々と、かわいい色気に溢れたドラマを刻み続ける。さゆちゃんは絵里ちゃんや愛ちゃんを評してよく「人間味がある」という言葉を使うが、私の見る限りダンスをしているさゆ自身ほど人間味に溢れた娘。もそうはいない。ウルトラ・ラテン・ダンサーさゆちゃん。そしてさゆがステージ上にいる限り(よっぽど疲れていたり、体調が悪い時を除いて… いや、そんな時でさえも)、そのダンスが胸を打つほど萌え萌えでなかったことなど、ただの一度もなかったのである。
そしてれいなちゃん、もう一人の「天才」。れいなの動きはつねに猫の身のこなしのような完璧な軌跡を描いて、そのかわいさに私たちを悶絶させる。れいなは愛ちゃんやガキさんのように激しいエネルギーを動きに込めて撃ち出すことはしない。この汗をかかないプリンセスは、まるで「子供」という別の生き物のように、ステージ上を悠々と泳ぎ、形態を変化させ続ける。れいなちゃんは手足を適当に動かしているだけでもかわいい。ましてや彼女がヒップワークを繰り出せば、その破壊力に私たちはどうにかなってしまう。
さゆにしろ、れいなにしろ、その「天才」は、こうした萌え萌えなパフォーマンスを、世間的な意味でのダンススキルとは一切無縁のところで身につけているところにある。一方で、娘。には愛ちゃんというとんでもない人がいて、この人は世間で持て囃される「萌え」に背を向けたまま、愚直なまでにスキルを追求し続けた結果、「ダンスが上手い」という生易しい次元を超えて、ほとんど彼女自身がスキルと一体化し、萌えの彼岸で再び萌えと爆笑に異常接近するという、気狂いじみたところまで行ってしまったのである。

そんな萌え異能集団であるモーニング娘。の中で、絵里ちゃんはさゆやれいなのような意味では決して「天才」ではなかった。ある時期までの絵里ちゃんは、ステージ上で視野に入ってきた瞬間にこちらの視線とハートをがっちり掴んで離さないというような強い存在では、たしかになかったのである。こうした印象は、絵里ちゃん側から見れば、コンサートを見にきたお母さんに「絵里がどこにいるのかわからなかった」と言われ、「自分をもっとアピールできるようになりたい」とダンスレッスンにチャレンジしたこと(「娘。ドキュメント2005」)と対応しているのかもしれない。その後も絵里ちゃんは「リボンの騎士」にあたってバレエのレッスンを受ける(「娘DOKYU!」)など、向上心を持ちきわめて真面目にダンスに取り組んできた。
ダンスにおける絵里ちゃんの天稟が花開いたのは、たしかにそうしたレッスンを経てのことであろう。しかし絵里ちゃんの真の偉大さとは、ダンスレッスンと努力を重ねたにもかかわらず、決してそこから得られるスキルに飲み込まれなかったことにある。絵里ちゃんはダンススキルを確実に身につけながら(実際いまではあの愛ちゃんに伍するほどの存在に絵里ちゃんはなっているだろう)、しかし自分の動きの無駄や身体の"ぶれ"を決して削ぎ落とそうとはしなかった。むしろ絵里ちゃんはそうした無駄やぶれを、スキルを利用して強力なものにし、絵里ちゃんにしかできない今の萌え萌え極まりないダンスができるようになったのである。絵里ちゃんは努力をすることで、決してありきたりの上手なダンスを身に付けたりはしなかった。そうではなく絵里ちゃんは努力によって、揺れる花に、真の絵里ちゃんになったのである。そんなとんでもない奇跡をなし得た娘。が絵里ちゃんのほかに果たしているだろうか。いまではもう100メートル先からでも、誰もが絵里ちゃんのあのダイナミックでフェミニンなダンスに瞳と心を奪われないではいられないのである。

あれは「シングル大全集」のときだっただろうか。ツアーの初日に見たステージ上の絵里ちゃんは突然「上機嫌」になっていた。盛り上がり系の曲の絵里ちゃんは心底楽しそうで、満面の笑顔で、子供のように飛び跳ね、身体を振わせていた。それからの絵里ちゃんはずっと機嫌が良くて、「ここにいるぜぇ!」のジャンプや「グルグルJUMP」のグルグルで、身体こそがよろこびそのものであると言うかのようにそれを極限までぶれさせているのは絵里ちゃんだった。
一方でダンスをしっかり見せるような場面では、絵里ちゃんはつねに真剣勝負に打って出る。さゆのソロ曲「It's You」は、世界でいちばん贅沢なバックダンサーすなわち愛ちゃん+絵里ちゃんを引き連れて歌われるのだが、この曲における絵里ちゃんのパフォーマンスはおそらく、絵里ちゃんのダンスのひとつの極点を示すものだと思う。ここでの絵里ちゃんは、愛ちゃんの向こうを張っているからということもあるのか、ほとんど鬼気迫るほどにキレキレでカッコよく、しかしギリギリのところで生身の女の子絵里ちゃんのかわいらしさを失うことなく、そのことによって萌えの臨界点に達しようとしているかのようだ。
いずれにしろ、モーニング娘。のコンサートツアーにおける絵里ちゃんは、あの普段の絵里ちゃんとは思えないほどの、驚くべき集中力によって、ある種非日常的な過剰さを帯びながらライブをこなしているように見える。

ところが、「卒業」も押し迫ったこの時期になって、私はそれとは少し違う絵里ちゃんを二つの場所で見れたように思っているのだ。ひとつは「絵里ちゃんジュンリン バスツアー」で行われたスペシャルライブ。ここでの絵里ちゃんは非常に萌え萌えだった。たしかに3人の中でいちばんメリハリの効いたダンスをしていたのは絵里ちゃんで、さすがだと思わせたのだが、しかしどこかいつものライブツアーとは違い、ややゆるめの普通の女の子の状態に近い身体の動きをしているように私には見えた。ここでの絵里ちゃんのダンスはたいへんかわいらしく、初々しく、まるで同じクラスの女の子の些細な仕草が醸し出すようなリアルな色香を感じさせた。
そしてもうひとつは「ララバイゲーム」CDイベントで見た「SEXY BOY」。ここでの絵里ちゃんはバスツアーに輪をかけて力を抜いた感じで、どちらかというとヘナヘナと言ってもよいほどだったのだが、これが素晴らしかった。いったいこれはどういう絵里ちゃんだろう。普段ライブを見ている私の眼が節穴で(実際私は自分の萌え眼力にはまったく自信がない)、ちゃんと見ていれば普段のライブツアーからこういう絵里ちゃんが折々で見られたのだろうか。あるいはこれらの特殊なライブに、絵里ちゃんはいつもより少しリラックスして臨んだのだろうか(そういえばバスツアーのスペシャルライブのMCでは「今回は1回勝負だけど、失敗してもそれはそれで絵里だから楽しもうと思う」みたいなことを言っていた気がする)。
しかしとにかく私にとって、そういう絵里ちゃんを「卒業」までもうあまり時間のない中で見られたというのは、たいへん重要なことだった。あの絵里ちゃんが、一周回って、ただひたすら萌え萌えなゆるゆるのダンスに到達したのを見ることができたのかもしれないのだから。女の子の身体のぎこちなさを含み持ったダンス。それはさゆやれいなが最初から達成していたダンスにかなり近いもののようにも思える。そんなダンスを楽しそうに踊る絵里ちゃんを見れたことは嬉しかった。CDイベの「SEXY BOY」の絵里ちゃんは、まるで絵里ちゃんの身体自体が"ウケて"クスクスと笑っているかのようだった。

シャングリラ絵里の薄目

2010年12月08日
Guide to reaD

亀井絵里・ジュンジュン・リンリン 卒業旅行 in 愛知(バスツアー)……先の11月22〜23日に行われたファンクラブ会員限定、1泊2日のバスツアー。絵里ちゃん、ジュンジュン、リンリンが12月15日のコンサート千秋楽をもってモーニング娘。を「卒業」することを受けて急遽開催が決定した。ちなみに絵里ちゃんは卒業後芸能活動を無期限に停止。ジュンリンは日本を離れ故国中国での芸能活動に移行するという。これまでも娘。の卒業は数多く行われてきたが、このように卒業後その娘。ともう会えなくなる(もしかすると永遠に)というケースはしばらくなかった。

ラグーナ蒲郡……バスツアーでいくつかのイベントの会場となった遊園地。22日の夜には絵里ちゃんジュンリン三人への「サプライズイベント」が厳しい風雨の中で強行され、結果的に涙と高揚に満たされた奇跡的なイベントとなった。

グループ写真……バスツアー2日目(23日)の朝一にラグーナ蒲郡で行われたイベント。主催者側によって任意に振り分けられた11〜13名のグループで、絵里ちゃんジュンリンの三人と集合写真を撮る。このグループはその後の「シールラリーゲーム」でもそのまま継続され、一つのチームとなる。

シールラリーゲーム……2日目の午前に行われたイベント。ラグーナ蒲郡のあちこちに、絵里ちゃん・ジュンジュン・リンリンがそれぞれ占いコーナーを設けて待機している。ヲタたちはチームごとに各娘。のいるコーナーを経巡り、占い師と化した娘。たちとゲームを行う。例えば絵里ちゃんの場合、彼女が3枚のカードから1枚を選び、対する4人のヲタ(グループ分けと同時に、絵里ちゃんと対戦する代表者はすでに主催者によって指名されていた)も1枚ずつカードを引いて、絵里ちゃんと同じ絵柄を引き当てた枚数だけ、シールがもらえるというもの(名付けて「写真 DE 神経衰弱ゲーム」。ジュンリンのゲームも同工異曲であった)。多くのシールを集めたチームは後に何かいいことがありそうな感じである。

シャングリラ絵里……蒲郡地区限定の占い師としての亀井絵里ちゃんのキャラ。事前にバス内で上映されたメッセージビデオでは、占い師のイメージということなのか柄模様のスカーフを真知子巻きにして登場。参加者をキュン死に誘う。

ギャラクシージュンジュン……占い師としてのジュンジュンのキャラ。メッセージビデオでは「ギャラクシー」という自分の名前が憶えにくかったらしく、名乗るたびに横目でカンペを見ながらぎこちなく「ギャらくシい、ジュンジュン」と繰り返し、車内を萌え爆笑の渦に巻き込む。

デステニーリンリン……占い師としてのリンリンのキャラ。

語り手(私、自分)……老境を前にした娘。ヲタ。娘。たちに恋している。バスツアー、ハワイツアーなどへの参加経験はなく、今回が初の参戦となる。幸運にも絵里ちゃんとゲームで対戦する代表者4人のうちの一人に選ばれている。

しろう……バスツアーの同行者。やはり絵里ちゃんと対戦する代表者の一人に選ばれている。グループ(チーム)のリーダーにも任命されており、そのため後に娘。たちのいるステージに登壇する恩恵を得る。




**リンリン***

そこにいるリンリンに普通に挨拶をしてゲームは始まりました。不思議なことに娘。が普通にそこにいるのです。リンリン本人からあの独特のリズムの日本語で改めてゲームについての説明があります。それを私はいい生徒のようにうんうんと聞くのでしたが、しかし自分たちのグループにも折あらば「ネタ」を繰り出し、娘。の気を引こうと(ガッつこうと)するヲタはいました。伏せられたカップを選べというのに、デステニーリンリンの手元にある水晶玉をつかむ「ボケ」をかますがごとくです(実際に自分のチームにそれをやったヲタがいました)。しかし真面目なリンリンは当惑して、それダメです、と慌てるばかりなのでした(ネタに走るヲタにとってはそういう姿を見られただけで「おいしい」ということなのでしょうか)。すぐそこにいるリンリンは決して太っているようには見えないのですが、なぜかぎっしり中身が詰まった女の子という印象で(たとえばマシュマロっぽいさゆとは真逆の印象で)、その質量から生まれる引力のようなものが、明らかに私たちをリンリンに引きつけているのでした。
ゲームが終わり、手を振ってリンリンのもとを離れるとき、私は思わずリンリンかわいいなーとつぶやき、急に微かな寂しさのようなものが胸に湧いたのですが、そのときようやく朧げに気づいたのです。私たちを惹き付けていたものが、リンリンのかわいさそのものであったということに。リンリンとともにほんの何十秒か数分かの時を過ごすうちに、リンリンのかわいさがその質量とともに少しずつ胸に沁み、大切なものになっていたことに、リンリンから遠ざかりながら気づかされたのです。
とはいえ、私もまだこの時にはこのシールラリーゲームの真のヤバさにまだ十分気づいてはいなかったのですが。



**絵里ちゃん***

絵里ちゃんはパラソルの下にこちらに横顔を向けてぼーっと座っていました。あまりに普通にそうしていたので、私はそれになかなか気づかなかったほどなのです。気づいたときにはもう角の向こうに誘導され、絵里ちゃんは見えなくなってしまいました。そこにはすでにヲタたちの大行列ができていたのです。

それからどれくらいの時が過ぎたでしょうか。昨日の豪雨が嘘のような陽射しの下で、私は半分眠ったようになりながら、ジリジリとしかし確実に絵里ちゃんとの時間へ近づいていきました。絵里ちゃんの目前の椅子に自分が座っているはずのその時間へ。

とうとう私たちはさっきの角の近くまで進み、まずは係のお姉さんの説明を受け、いよいよ呼び出しが掛かるのを待つばかりになりました。そしてついにその角を曲がり、パラソルの下、絵里ちゃんのいる卓の前に導かれたのです。

すると、あの絵里ちゃんが目をつぶっていました。そしてときどきチラチラと薄目を開けて私たちが着席する様子を伺っていたのです。一瞬面喰らいましたが、どうやら絵里ちゃんはもうすでにシャングリラ絵里になり切ろうとしていて、占い師に相応しい神秘的な佇まいを演じているらしいのでした。絵里ちゃんはまたチラッと薄目を開けて、たしかにこの私を確認しました。ああ、このときの絵里ちゃんは真っ赤なタートルネックのセーターも鮮やかに、髪を後ろでまとめて耳を出し、世にも素敵な姿でそこに座っていたのです。
私たちのグループにもネタに走るヲタがいたことは前にも申しましたが、ここでも彼らは協議して、4つある椅子の最後の1席を譲り合うというダチョウ倶楽部由来のコントを演じ始めました。私はいかがなものかと当惑したのですが、絵里ちゃんはそれをちょっと驚いたように見て、一瞬の間を置いたあと、我慢しきれなかったのか、フッ!と小さく一つ吹き出し笑いをしたのでした。
「では絵里さまお願いします」とスタッフのお姉さんが絵里ちゃんに声を掛けます。「えり様!?」と私たちはややザワつきましたが、これは前日のスペシャルライブで、絵里ちゃんとジュンが「ロマンティック浮かれモード」を歌ったときヲタたちがそう呼んだのを、絵里ちゃん側がここに取り入れたのでした。
絵里ちゃんは説明を始めます。いまからわたしはこの3枚のカードから1枚を選びます。みなさんも並んだカードから1枚を選んでください。カードをめくって同じ絵柄が出たらシールをあげます。そんな事務的な説明を、私は夢見心地で聴きました。私が座ったのは絵里ちゃんから見ていちばん左端の席でしたから、絵里ちゃんの顔を斜めからじっと見つめ、見蕩れることができたのです。これほどまでに絵里ちゃんのかわいさを、何の制約もなく身近に浴びたことなどもちろんかつてなかったことなので、幸福のあまり自分がほんとうにどうにかなって、この甘く膨らむ時間の中へ笑顔のまま溶け込んでしまうのではないかと思えたほどでした。
「では、これから呪文を唱えます。」絵里ちゃんは水晶玉に両手をかざし、「はぁー、エリサマ! エリサマ! エリサマ! エリサマ! さあご一緒に! エリサマ!エリサマ!エリサマ!エリサマ!エリサマエリサマエリサマエリサマ!」と水晶の周りに手のひらをグルグルさせながら私たちと一緒に叫ぶのでした。

ハッ!と言って絵里ちゃんはカードを選びます。「ハイっ!選んでください。はやく1枚選んでください!」促され私もカードを選びます。ガッつき系のヲタがリンリンの時と同様、カードではなく水晶玉に手を伸ばす悪戯をしますが、シャングリラ絵里としてはそれにウケるというより自分のペースが乱されることが不満のようでした。
「じゃあ、めくりますよ! ハイ!」私のめくったカードには絵里ちゃんの手にあるのと同じポーズした絵里ちゃんの写真がありました。私と絵里ちゃんは呪文の効果もテキメンに心が通じ合ったのです。シール2枚獲得です! おめでとうございます! スタッフに促され去っていく私たちに、絵里ちゃんは長く手を振ることをやめようとしませんでした。



**ジュンジュン***

最後にギャラクシージュンジュンのところへ行きました。ジュンジュンのゲームは代表者がジュンとジャンケンをして、「あいこ」になったらシール獲得というものだったのですが、サービス問題というか、ジュンは各チームにわかりやすいヒントを与えているようでした。ジュンのコーナーは、順番待ちの間、前のチームのようすが普通に見える位置にあったので、ジュンがわざわざ椅子から立ち上がり、手のひらを大きく広げて「元気ピカッピカッ!」の振りをしているのがよく見えました。つまりそれは「パー」を出すよ、というヒントなのでしたが、それをヲタたちが完全に理解するまで、おそらくは3度ほども繰り返していたので、待っている間にこちらはすでにジュンの温情と萌え萌えな動きにすっかり捉われているのでした。
さて、わがグループの番になり、ガッつき隊はさっき絵里ちゃんにウケたのと同じダチョウ倶楽部のコントを再び演じたのでしたが、しかしそれを見たジュンはクスリとも笑わず、逆に明らかに不機嫌な顔になりました。「ソレさっキも見たヨ。」どうやら別のグループがすでに同じコントをジュンにやった後らしいのです。スベったガッつき隊はあぁ…と凹むのでしたが、私は内心ジュンよ、よく言ったと快哉を叫ぶとともに、ちょっとしたことですぐ機嫌が変わるジュンの感情の推移に生々しく触れ、ひどく感激していたのでした。
ジュンは自分の出すジャンケンの手について、私たちにヒントを出してきました。「こレはぁ、女の子はこれダよね。」若干???な感じの私たちを見て、「わかる?」と反応を伺いながら、いつしか両手にピースサインを作って、胸のあたりにチラチラさせているのでした。どうやら女の子は写真などでピースサインをよくやるから、つまりチョキを出すよ、ということらしいのです。
そして丁寧にも、代表者一人一人別々に呪文を掛け始めました。それは「ハーアッ!」と腕をヲタへ向けて伸ばし念を送るような呪文で、ヲタたちも同じ動作をしてジュンジュンのほうへ念を送り返すのですが、私のグループに一人それを返さないヲタがいて、ジュンに厳しく叱られていました。
せーのでジャンケンをし、全員がチョキで正解となって、万々歳のうちにジュンとのゲームは終わりました。ゆーわくとサービスを惜しげもなく捧げてくれたジュンジュンは、私たちヲタ全員にこの上なく優しかったと思っています。



*****

シャングリラ絵里とのゲームの後、ジュンのところへ向かう間、自分は見るからに放心していたらしく、「どうしたんですか、完全に魂抜けてるじゃないですか」としろうがニヤつきながら(彼も絵里ちゃんの目の前の席に座っていたのだからニヤけるのも当然のことです)声を掛けてきました。いや、私自身もいったい「どうした」のか、自分がいったい何を体験したのか、しばらく理解できないでいたのです。
しろうへ向けて片言を発しているうちに、ようやく自分が体験したことの重大さが少しずつ言葉のかたちを取り始めてきました。それを今になってあらためて言葉にし直すと、次のようなことになります。
これまで私は娘。たちと何をしたかったのでしょう。少なくともそれが「握手」でないことは明らかです。私たちは普段好きな女の子と握手なんてしませんし、握手をしたいとも思いません。恋人のように腕を組むとかならともかく、事務的に手と手を接触させることなど、自分はまったく求めていなかったのです。いや、握手の本質はそこにあるのではない、娘。たちと正面から向き合い言葉を交わすことにあるのだ、と言う人もいるでしょう。つまりコミュニケーションがそこにはあるということです。また、たしかに普段娘。から遠く離れて生きる私たちにとって、娘。たちと間近に会い、自分に向けられた姿を見たり声を聴いたりする握手会は重要な体験には違いないとは思います。しかし根本的な問題として自分は娘。と握手することを求めていないし、さらに言うならいきなり正面切って娘。たちと言葉を交わすことも大の苦手なのです。
では、何をしたかったのかというと、娘。たちに萌え尽くしたかったのです。娘。たちの近くで、娘。たちのかわいさにふやけるまで浸りきり、そのかわいさにとことん溺れたかったのです。娘。たちの声をそこに聴き、他愛のないその感情の動きに感応し、一緒に笑ったり、飛び跳ねたりしたかったのです。娘。たちのかわいく美しくゆーわくに満ちた顔やお洋服や手足や仕草や表情を間近に見て、何度でも恋に落ち、何度でもキュン死したかったのです。つまり娘。たちと遊び戯れたかったのです。
そのとき自分は必ずしも娘。の正面にいる必要も、まっすぐに言葉を交わす必要もありません。むしろ娘。たちと斜めの位置にあって、その存在を感じながら、時折横目で(あるいは薄目で)互いを見ればいいのです。
だからこれは、私がずっと求めていた、心のどこかで夢見ていた体験だったのです。私が欲していた「イベント」はおそらくこれだったのです。娘。とファンという制約のなかで行われるとしたら、これ以上のことが果たしてありえるでしょうか。「娘。とトランプをするという夢が叶ったじゃないですか」としろうが言います。そうです、たしかに私はずっとそんなことを願っていました。冬の日、暖房の効いた部屋で娘。たちとトランプをするような夢を見ていました。その夢が、絵里ちゃんによって、ほんの些細なレベルとはいえ、たしかに叶ったのです。私は絵里ちゃんとついに「遊んだ」のです。そうです、このゲームイベントは、まるであの心から愛したハロモニやDVDマガジンの世界、幸福の極みのようなあの世界が、私の目の前で行われたかのようなものだったのです。

ドキュメント

2010年10月31日
 あっぱれ回転ずし!の終わり方に泣いた。れいなちゃんの声に。れいなちゃんの声が、性別を越えて幼い男の子の声、「子供」そのものの声へと極まって、眠りに落ちて行く。まるでれいなちゃんが子供の精霊のように真ん中にいて、その声に誘われるように娘。たち全員が子供の幸せな眠りへと落ちて行く。
 ジスさんのことを思った。そしてク・ドンペクのことを。ジスさん(韓国愛ちゃん)が愛ちゃんに瓜二つであるように、クは俺たちに限りなく似ていた。愛ちゃんがジスさんのように有名人(アイドル、女優、歌手、スター)であるというだけではない。さゆも言っているように、ジスさんは顔や仕草が時々驚くほど愛ちゃんに似ていた、いや、似ているどころかどう見ても愛ちゃんその人にしか見えないのだった。この類似が単なる偶然なのか、あるいは誰かの意図が手繰り寄せたものかはわからないが、しかしいずれにしても真にとんでもないことだと思う。このドラマはまるで、愛ちゃんそっくりのキム・アジュン(ジスさん)の姿をあらかじめ用意して、愛ちゃんの声がそこに重なるのを待っていたかのようだ。この愛ちゃんとジスさんの二重三重の類似こそが決定的である。だからこそあのドラマは、俺たちヲタが同じマジヲタであるク・ドンペクに自分を重ねるのを待っていたかのようにも思えるのだった。だからこそ俺たちもあれほどまでにク・ドンペクに自分を重ねずにいられなかったのだ。
 「アクシデント・カップル」を私たちは、はたして娘。とヲタは結ばれ得るかという画期的なテーマのドラマと受け取った。私もずっとそのことを考えてきた。もう何年もそのことばかりを考えてきたのだ。
 愛ちゃん=ジスさんのオーバー・ザ・レインボウについてはけんくんがいずれそのことを語るのを待とう。
 さゅぇりのこと。ガキカメのこと。胸を裂かれる。
 愛佳やリンリンはまだ子供なので、新曲(ララバイゲーム)の身体に危険そうなあのサビの動きはしなくても(ちゃんとできていなくても)良い。
 ガキさんは一周していままるで私の「娘」になろうとしているかのようだ。ブログ写真や3D映画の制服姿に見られるガキさんの圧倒的な幼さ。即興劇で会ったガキさんはまるでいたずらするように、私のほうを見てバットやまぐろを握るのだった。私はいまようやくガキさんが自分のはぐれた娘であることに気づかされる。
 愛ちゃん同様Sとぅさんもリンリンに夢中に見える。Sとぅさんは私たちと同じようにモーニング娘。に夢中に見える。
 フローベールが「家(うち)の馬鹿息子」だとするなら、娘。たちは「家の萌え娘。」とでも言うべき存在であろう。娘。たちはそれぞれの家族のなかに組み込まれている。私たちが娘。に萌えるということは、娘。たちの家族全体を引き受けることに他ならない。(そう言った途端にもちろん、かつてもいまも家族と離れて暮らさざるを得ない娘。がいたことを思い出す。)
 娘。たちの話を真に受ければ、娘。たちが常規を逸しているように、いやそれ以上に、娘。たちの母親は常規を逸している。
 「絵里ちゃんはもうずっと自分の生活の中にいたので、絵里ちゃんのいない、絵里ちゃんに会えない世界というのが考えられない。そんなの俺が知ってる世界じゃない。仮にそれが新しい世界だとして、それが生きるに値するとは今の俺にはとても断言できない。」
 さゆちゃんの天使の羽。いつも私服の写真を撮る場所のさゆの後ろに置物があって、それが時々さゆの背中に生えた羽のように見える。
 私が見に行った愛ちゃんガキさん即興劇をたまたまさゅぇりも見に来ていた。愛ちゃんが二人を発見して大きく手を振ったので気づいた。でも、それがさゆとえりちゃんだと確信するには少し時間が掛かった。二人があまりに幼く見えたから。たしかに二人は客席でもいちばん薄暗いところにいたし、それに絵里ちゃんはずっとフードを被っていたから、わかりずらいということはあった。それにしても円形劇場のほぼ反対側の座席から見た二人は幼く、美しかった。延々と続く舞台に、絵里ちゃんはそのうち飽きだし、さゆもやがて眠そうな顔をしていた。
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